ロサンゼルス研究留学


ロサンゼルス研究留学

私は200310月から200512月までの間、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)Adult Cardiac Catheterization Laboratoryに研究留学させていただきました。留学に対する漠然とした憧れはあったのですが、その当時の出向先の京都桂病院・中村茂先生からUCLAJonathan Tobis先生の紹介を受け、一度は外国で暮らしてみたいという想いと「なんとかなるよ」という中村先生のあまーい助言から留学を決意しました。

 

Tobis先生はIVUS(血管内超音波エコー)の分野で非常に高名な先生で、彼のオフィスには心臓移植後の患者さんのIVUSデータが全米から集められ、それらのデータ解析が私の主な仕事でした。英語もカタコト、前任の引継ぎもない状態で訪れた研究室には私以外に中国からの留学生がいて、お互い奇妙な英話でコミュニケーションをとっていました。

 

長期休暇中にはmedical schoolへの推薦状をもらうためのボランティア学生が毎年5名程度、オフィスに来て共にデータ解析をしました。国籍・人種は様々(イラン、ロシア、インド、カナダ、ドイツ)でしたが、アメリカにはアメリカ人が住んでいると思っていた私にとって、彼らとの交流は非常に楽しいものでした。

 

留学当初は、基礎研究と違いTobis先生が全くの臨床に従事されていた為、彼が病棟に上がったり、外来診療に入ってしまうと、私はオフィスに取り残されて、データ解析が終わると仕事も全く無くなることから、焦りを感じ、何をすればいいのか分からなくなる時もありました。しかし、自分からやりたいことを主張しないと何も始まらないと思い、外来を見せてほしい!こんなテーマでデータを出して論文を書いてみたい!等々お願いしてみたところ、週に一回外来見学もでき、データに関して示唆に富むアドバイスも沢山いただけました。また外来では日本からUCLAに来て、心臓移植を受けた患者さんも数人みかけ、いろんな意味で貴重なお話が聞けました。

 

ロスでの携帯電話を持たない生活は、医師となって初めて経験する開放感に満ちた生活でしたが、留学後1年を経過したあたりから“まだ何も仕事らしい仕事をしてないのに翌日が帰国日だ”という夢をよく見ました。しかしそのような見えないプレッシャーにもめげず?たくさん貧乏旅行もしましたし、テニス・キャンプ・釣り・スキー・国立公園めぐり等々、日本では出来ないさまざまな経験もしました。友人もたくさん出来、映画監督、麒麟ビールの副社長、ハリウッド女優を目指す人、寿司職人、ロケット開発してる人など、日本では会話する機会もなかったような人達との出会いもありました。

 

アメリカで暮らすということは、minorityに身を置くということですが、不思議なことに渡米してから日本の良いところがたくさん見えてくるようにもなりました。変な意味ではなく、純粋な愛国心と呼べるようなものも、自分の中に芽生えてきたような気がします。仕事とともにこのような精神的な体験は留学しなければ一生得られなかったと思います。

 

日本での常識が全く通用しないアメリカでは、役所を含めてずさんな仕事があまりに多く、言葉の問題と相まって、数々のトラブルに遭遇することもありましたが、今となっては全てを総括して留学して良かったな。としみじみ感じております。